謎多き薬品「虹波(こうは)」です。
虹波研究は、昭和10年代に理化学研究所の理学博士「尾形輝太郎」が合成した感光色素を、
熊本医科大学の医師「波多野輔久」が医療への転用を試みたことからから始まったようです。
感光色素には抗菌作用や新陳代謝の効果があると考えられ、
日本陸軍が機密扱いで「虹波」「紫光」を開発。
熱傷、凍傷などには一定の効果があったようですが、抗生物質ほどの効果はなかったようです。
(現在「ルミンA」という名で感光色素を用いた市販薬が販売されています)
「虹波」の名称は、陸軍第七技術研究所の所長「長澤重五」(陸軍中将)が、
「虹」は感光色素から、「波」は「波多野輔久」の名字からとって命名したようです。
開発段階では「虹波」が「虹波1号」、「紫光」が「虹波12号」と呼ばれていました。
※「紫光」の記事はこちらをクリック→
『No.135:紫光』
陸軍が研究を進める中で、ハンセン病患者への臨床試験で9名が亡くなっており、
現在その倫理性が問われています。
製造元の「理研栄養薬品株式会社」の沿革は以下の通り。
大正6年(1917年)
皇室・政府からの補助金、民間からの寄付金を基に「財団法人理化学研究所」を設立。
昭和13年(1938年)
同研究所を母体として研究成果を工業化するための「理研栄養薬品株式会社」を設立。
昭和15年(1940年)
「小湊潔」が「日生化学研究所」を設立。
昭和18年(1943年)
「日生化学研究所」が「理研栄養薬品株式会社」に合併し京都工場となる。
昭和24年(1949年)
「理研栄養薬品株式会社」のビタミン部門を分離独立し「理研ビタミン油株式会社」を設立。
「理研栄養薬品株式会社」が倒産。 ※ビタミン部門のみを残して発展解消した可能性あり
昭和25年(1945年)
集中排除法により「理研グループ」が解散となる。
昭和26年(1946年)
旧京都工場が「理研化学工業株式会社」を設立。
昭和55年(1980年)
「理研ビタミン油株式会社」が「理研ビタミン株式会社」に社名変更。
販売元の「虹波社」の沿革については詳細不明。
外箱
薬品自体は非常に興味深いのですが、パッケージはこれといって特筆すべき点はないですね。
漢字が「旧字体」で書かれている、いわゆる「旧字体モノ」ですので、
昭和30年以前の品であると推測出来ます。
「理研栄養薬品株式会社」名義ですので、昭和13~24年の品であると判断出来ます。
収入印紙が貼られていませんので、大正15年以降の品であると判断出来ます。
「価格統制品」マークが押されていませんので、昭和15~21年以外の品であると判断できます。
また戦後の雰囲気を感じますので、昭和21年以降の品であると推測できます。
以上のことから、この品が昭和21~24年に製造されたと判断出来ますね。
中身
中には説明書と墨色の紙に包まれた筒状の容器が入っています。
光に当たらないように紙が糊付けされているので、これ以上は中身をお見せすることができません。
おそらく筒状のガラス瓶にコルク栓が付いていると思います。
説明書 ※画像をクリックすると拡大します
この説明書を読んでも、いまいちこの薬品がどういう風に何に効くのかよくわかりません…
製造販売元には「理研栄養薬品」だけではなく、
「佐藤製薬」、「塩野義製薬」、「武田薬品工業」と錚々たる製薬会社が名を連ねていますね。
この薬品に関する追加情報をお持ちの方は、
「コメント」または「メッセージを送る」から御教授下さい。
それでは、またのお越しを・・・
【室長日誌】
「理研栄養薬品株式会社」が1949年に倒産したことは、
「理研ビタミン株式会社」に問い合わせたところ判明しました。
まだまだネットですべての情報を賄えないと言うことですね。
【関連リンク】
理化学研究所ホームページ
理研ビタミン株式会社ホームページ
理化学研究所 - Wikipedia
理研ビタミン株式会社 - Wikipedia
【当資料室の注意事項】
●ご紹介する薬品に違法な物は含まれておりません(・・・多分)。
●記載されている情報はネットで軽く調べた程度のモノです。
●薬の年代特定に関しては『
レトロな薬の年代特定法』を参照して下さい。
●「旧字体モノ」「右書きモノ」などの「〜モノ」は私が勝手に名付けただけです。
●「陸軍衛生材料廠」の品を「陸軍衛生材料」としていますが、私が勝手に呼んでるだけです。
●米帝の薬品類は『
パイル二等兵の露営日記』にてご紹介致します。